ガンと、私と、母
2015年、私の癌が見つかったきっかけは、集団の健康診断の時にオプションで腫瘍マーカーを調べてもらったことです。
「とても数値が高いので必ず大きな病院で検査してもらってください。」と電話がかかってきたのは、鳥取県に住む実家の母の検査入院に付き添って帰宅した翌日のことでした。
母はずっとすっきり元気ではない状態が続いていて、でも近所の小さな病院では原因がわからず「悪い病気かもしれないから、大きな病院でみてもらいなさい」ということで入院することになったのでした。病院嫌いで検査を受けたことのない人だったので、とても老夫婦だけでは検査入院に行くのも不安、ということで付き添ったのです。
結果はすい臓がんでした。
すい臓がんは見つかりにくいガンで、母も相当進行していたようでした。
私は滋賀の病院で「どうも肺に何かある。これが何なのか調べないといけない。」ということでした。8月の間、大変な検査を色々しましたが、なかなかうまくがん細胞の生検がとれなくて、でも「採取した細胞の中に癌細胞は見つかりませんでした。良かったですね。」とはならず、最終的には針を肺に差し込んで、細胞を取る、という方法でがん細胞を見つけることができて、肺腺癌という病名をやっと告知された時期でした。
自分のことを実家の家族には言い出せませんでした。母のガンが見つかって、父もがっくりきていましたし、弟たちもどう治療を進めるか迷いに迷って家族みんな大変だったのです。
手術できる、とは言われましたが、母はこのときすでにとてもやせていて、気力もあまりなく、本当に手術に耐えて元気に回復できるのか、判断できませんでした。
とてもこの上に「頼りにされてる長女もガン」なんていう事実を父に知らせる気にはなれませんでした。ましてや母には絶対内緒にしたかったのです。
結局「手術できる20パーセントの患者に入っている幸運を逃さずに 手術を受けて欲しい。」という主治医の強い勧めもあって、手術を受けました。
手術の日、終わってから見せられた臓器の大きかったこと!すい臓の他に、十二指腸なども切り取られました。がんの部位はとても固い大きなしこりでした。
こんなものが、自分の肺にもできてるんだ、、、と思って臓器を見ました。
でも不思議と怖くはなくて、理科の授業を受けているような淡々とした感情でした。 「取り乱して自分の病気のことを悟られてはいけない。」という強いブレーキがかかっていたと思います。
母は、手術そのものは成功しましたが、術後の回復がなかなかできないで、ついにベッドから離れることはできませんでした。お腹の中で出血したり、水が溜まったり、ひどい貧血状態になったり、しました。気力と食欲がなくて、テレビを見ることさえせず、病院の天井をボーっと眺めて過ごすことが多かったようです。様々なチューブが常に身体についてました。1年半を病院と施設の往復で過ごし、実家に帰ったのは冷たい身体になってからでした。
父は一日も欠かさずお見舞いに通いました。本当に一日も欠かさず、田舎道を片道30分運転して
「何か口にできないか」と、果物や、上等のお菓子や、家で自分で料理したおかずを、タッパーに入れて通いました。
母は、本当に父のマドンナだったんだな。と思います。
母の手術が正解だったのか、どうか、私にはわかりません。緩和ケアという選択もあったのかもしれない。でも、父にこれだけの愛情を注がれ続けて、母は満足だったんじゃないでしょうか。父も、手術しない選択をしていたら「もしかしたら手術してやってたら元気になってたかもしれない。」と思い続けたかもしれません。やるだけのことを、やり遂げた、と思えるのは幸福だと思います。
私は、、、私は自分の病気と重なって、実家の家族には帰省できない苦しい嘘を数か月つき続けていました。頼りになるはずのお姉ちゃんがなかなか見舞いに帰らない。薄情だ。と弟妹になじられたりもしました。しんどかったです。
そんな嘘をいつまでも突き通すことができなくて、自分の手術の前には父と弟妹に告白しました。11月のことです。父を落胆させたくなかったなぁ。でも、仕方ないです。
父も、弟妹達も、最後まで母には内緒にしてくれました。母には私の病気を知らせずにすみました。私の嘘に付き合ってくれた家族に感謝します。私の心配までさせてしまいました。ごめんね。